2022年7月6日

「だるまかれし まぐろかのじょ」解題


 〈2〉の映像から〈2.x〉の映画へ

『だるまかれし まぐろかのじょ』(2022年)を企画したのは、Covid-19の影響が国内まで拡がった頃でした。ライヴを愉しむエンタテイメントは公演中止が相次ぎ、人気歌手がYouTubeで「うちで踊ろう」と口ずさんだり。小劇場演劇も公演が打てなくなったので、業界では急速に「映像化」が進行。無観客配信をしたり、メディアを販売したり、ドラマを製作したり…。以来「演劇の映像」は舞台鑑賞を補完する手段としてほぼ定着したといっても良いかもしれません。そしてこの映画も、劇作家のモスクワカヌさんに脚本を依頼し、会話劇のスタイルをベースに組み立てました。中田由布さん、木内コギトさん、竹田航さんといった小劇場で活躍する俳優陣が素晴らしい芝居を披露してくれたので、余計「これやっぱ舞台で見たいよね…」とは言わせられん!と必死でしたが、約40分の映像をご覧になった印象はどうでしょう――まだまだ演劇擬き?それとも十分に映画だった?――映像と舞台の鑑賞上の違いを指摘するなら、まずは視線の質だと思うんですね。映像は作り手が視線をコントロールするのが前提だし、演劇では座席を離れられないという制限があるにしてもどこを見るかは観客の自由。だから、演劇を映像で見る時に居心地の悪さがあるとすれば、そのひとつが「カット割」だったりします。なので、雑にカットなど割らず他のストレスも少ないというほうが好ましい。余談ですが、その意味で、日本のラジオが配信した『ロマンランタン』は最高でした(こちらにも木内コギトさんが出演しているので機会があればぜひご覧ください!)。瀟洒な演劇であると同時に的確なフレームをもつ映像でもあり、パーフェクトだったと思います。『だるまかれし まぐろかのじょ』の製作もそんな演劇の映像化に腐心する一方、映像表現固有の関心から意識したのは「〈3〉の映画」を作りたいということでした。それは『disposal』がモノローグを使った〈1〉の映画であり『王あるいはなにものか』がデュエットによる〈2〉の映画だったからです。映画史的に〈3〉の映画というと、自分はトリュフォーの『突然炎のごとく』(1962年)をパッと思い浮かべたりします。そこから見ると、まだ〈2.x〉くらいの映画に留まっているのかもしれませんが、デュエット(二重唱)とダイアローグ(対話)の違いは鮮明になったという感じでしょうか。デュエットには開放された空間に拡がる共時的な響きがあるし、ダイアローグは閉じた空間で言葉を通時的に響かせるので、両者の存在様態がそもそも違う。デュエットの〈2〉は原理的に〈2〉の変奏だけど、ダイアローグの〈2〉は時に〈2〉の規則性から逸脱する。そこにノイズが生じたり偶然性の介入があるということです。優れた芸術にはそういう不確かな力が埋め込まれていて、それが物語を動かすトリガーになる、はず。だから、ダイアローグやツーショットといった〈2〉の映像の内部から外部のスクリーン=作品全体に波及する“何か”を感じてもらいたい。「〈2.x〉の映画」として成功するかどうかの鍵がそこにあると思っています。