「見る」という語の二つの用例。
その1、「そこに何が見えるのか」――「私はこれを見ている」(或る記述、ある素描、或る模写が続く)。
その2、「私はこの二つの顔に類似を見る」——これらのことを私が報告している相手が、私と同じように二つの顔を見ていてもかまわない。
重要なのは、見えている二つの「対象」のカテゴリー上の区別である。
一人はたぶん、二つの顔をそっくり描き写すことができるであろう。もう一人はその素描のなかに、最初の人の気づいていなかった類似を認めることができるであろう。
私が或る顔を熟視していると、突然他方の顔との類似に気づく。私は、その顔が変化しなかったことを見ている。にもかかわらず、それは違ったふうに見える。この経験を私は「或るアスペクトの知覚」と名付ける。
心理学者たちはその原因に関心をもつ。
われわれが関心をもつのは、この概念と、経験概念のなかでそれが占める位置である。
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対象の色には視覚印象の色が対応し(この吸取紙はバラ色に見えるし、実際バラ色である)、対象の形には視覚印象の形が対応する(私にはそれが四角に見えるし、実際に四角である)。——しかし、私がアスペクトの変転において知覚するものは、或る対象の性質ではなく、その対象と他の対象との内的な関係である。
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私は実際にその都度別のものを見ているのか、それとも自分の見ているものを違った仕方で解釈しているにすぎないのか。私としてはこの最初のほうを主張したい。それはなぜか。——解釈することは思考であり行為であるのに対して、見ることは一つの状態である。
出典:ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン「哲学探究」2 部11章(黒田亘 編「ウィトゲンシュタイン・セレクション」平凡社、2000年刊)