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2023年1月2日

見知らぬ映像へ「ただいま」と言う。


2019年1月1日撮影の鈴鹿山脈

あけましておめでとうございます。

俺、正月は毎年故郷に帰省すると、基本暇なので、よくジョギングします。場所はたいてい地元の一級河川沿いの土手なのですが、その「鈴鹿川」と川向こうのなだらかな「鈴鹿山脈」を眺めながら走る。それなりに美しいとはいっても観光資源になるほどではありません。ただ、物心ついた頃から眺めたので馴染み深いですし、ある時それが自分にとって貴重な風景だと気付いてからは、ちょっとカメラで撮影したりもしました。ですが、後からその写真を見てもなんとなく手応えがない。大人になって、たまに帰省した時に感じる「ただいま!」という感情までそこには写らないというか…

写真や映像というのは見たままのリアリティで記録するのは難しいものです。何を撮ってもたいてい生で見るより劣化するし、特別な撮影技術を使うと、今度は見えない世界まで写ったりする。理想的に撮影したとしても、そこでリアルに感じた風の冷たさや鳥の鳴き声、車のノイズ、果ては、微かな感傷を刻むとなるとさすがに厳しい。ならば、映像に「リアルな体験」を求めるなんてムダな努力なのでしょうか?――それはある意味では正しく、またある意味では間違っている。つまり「誰にとってのリアルか」という問題なのです。映像はそれを撮影する主体すなわち〈自己〉のものではない。映像は〈他者〉のものである。そこに記録された映像を見る〈他者〉にとってはそれが体験のすべてだとしたら、100%完全な情報であることに何の意味があるでしょう?

たとえば、私たちは「映画」を見ると初めての風景を目にします。誰かの家のリビング、見知らぬ町の公園、何処とも知れぬビルの一室、彼方を見渡す防波堤…。そのシーンにすべてが写るはずはないけれど、不完全な情報から、私たちは一つの体験を再構築する。みずからの過去の記憶を探索し、そこに写っていない情報を利用する。それが見る者自身の記憶であることこそ重要なのです。記憶の補完によって映像を理解したり感情移入したりするだけでなく、そこで発掘した記憶の断片は自身の新しい体験の礎になるのだから…。映像が〈他者〉のものであるというのはそういう意味においてです。新しい不完全な映像だからこそ、その映像に「ただいま!」と言うことだって不可能ではないはずだと思うのです。

では、2023年も、よろしくお願いいたします!