2021年12月30日

詩歌川百景

吉田秋生 著、小学館、591円+税
吉田秋生の新連載漫画「詩歌川百景」は「うたがわひゃっけい」と読む。東北の山間にある小さな温泉街が舞台である。「海街Diary」の浅野すずが鎌倉に来る前、父と暮らした場所でもあるという。本作のヒロインは小川妙という17〜18歳の女性(大学進学の話題があったので)なんだけど、吉田秋生の演出というか描き方が絶妙。すずより歳上なのでキャラに奥行きがあるというだけでなく、吉田の漫画家としてのキャリアが育てた人物像だと思う。そして彼女をとりまく人間模様から浮かび上がる繊細な情感にはますます磨きがかかっている。まぁだまされたと思って読んでみてください。

2021年12月28日

テレーゼの記憶

Franz Kafka (1883−1924)

 あるとき、テレーゼが――カールは傍らに立って窓から通りを眺めていた――母親の死のことを話した。冬の夜だった。母に連れられ――そのときテレーゼは5歳ぐらいだったのだろう――たがいに包みをかかえて、寝ぐらを探していた。はじめ母親はテレーゼの手を引いていたが、その夜は吹雪いていて、前へ進むのも容易でない。手がしびれ、離ればなれになったが、母は後ろをふりむかない。テレーゼは必死に母親の上着の裾をつかんでいた。テレーゼは何度もよろけ、倒れもしたが、母はまるで気がふれたように歩き続ける。ニューヨークの長い、まっすぐな通りで吹雪に遭うとなると、酷いものだ!カールはまだニューヨークの冬を体験していなかった。風がまともに吹きつけてくる。グルグルまわって、目を開けていられない。たえまなく風が雪を叩きつけてくる。走るようにしても、ちっとも前に進まない。子どもは大人とくらべて、ちょっぴり有利だった。地面を這うようにして行けるし、それに子どもはなんだっておもしろがるものなのだ。そのときテレーゼは母親のことがよくわかっていなかった。良い子でいさえいれば、きっといいことがあると思っていた。玩是ない子どもであって、母親の切ない死のことなど、まるでわかっていなかった。母はそのとき、まる2日間というもの仕事にあぶれていて、小銭すらもっていなかった。その日、なにひとつ口にせずに歩きまわっていた。包みにはボロが入っているだけ。念じるような気持ちで、捨てずに持ち歩いていたのだろう。翌日には建築現場の仕事にありつける見込みがあったが、母はなんどとなくテレーゼに言った。せっかくの仕事だがダメになるかもしれない。もう死ぬほど疲れている。その朝、通りで血を吐いて、通行人を驚かした。ただ一つの願いは、どこか暖かいところで休むことだった。それがこの日、どこにも見つけられない。しばらく吹雪よけに休んでいたところは、管理人に追い出された。狭い、凍りついたような廊下を進み、階段を上がり下がりした。中庭を通り、どの家といわず戸を叩いたが、どこも開けてくれない。声もかけてくれない。通る人ごとに頼みまわった。一度か二度、母は息を切らして冷たい石段にうずくまり、テレーゼを招き寄せ、嫌がるのをかまわず痛いほどキスをした。それが後で、最後のキスだったと気がついた。目の見えない虫けらみたいだったのだろう。そんなこともわかっていなかった。開いたドアの前を通り過ぎることもあった。湿った空気が流れてきて、火事のときのような煙が立ちこめていた。戸口に姿が現われ、ドアいっぱいに立ちはだかった。次にはそっけなく断られた。いま思い返すとテレーゼには思い当たるのだ。はじめこそ母はほんとうにどこかで宿りを求めていたが、真夜中を過ぎた頃からは、誰に声をかけることもしなかった。にもかかわらず夜明けまで、ほんの少し休んでは、またもや歩き続けた。門が開いていて、鍵のかかっていないドアには人の気配があり、誰かしらがいた。歩くといっても、ろくに前へ進まない。ほんとうのところは這いまわっているようなものだった。真夜中から朝の5時まで、20軒の家の戸を叩いたのか、2軒だったのか、それとも1軒だったのか、テレーゼは覚えていない。土地を効率良く使うために、廊下がどこも同じにつくってあった。同じところをグルグルまわっているのだった。テレーゼがかすかに覚えているところでは、やっと辿り着いた戸口を過ぎると、また同じ戸口があって、その前に倒れこんだ。子どもには、むろん辛いだけで、わけがわからない。母に引っぱられたり、また逆に引っぱったりした。どこからもいたわりの声などかけられなかった。ただ一つだけ子ども心にわかったことは、母がどこかへ行ってしまいたがっていることだった。だからしっかり握っていた。母の手を握っているときも、もう一方の手で上着の裾をつかんでいた。ときどき叫んだ。置いてきぼりはイヤなのだ。ドタドタと階段を上がっていく人、姿は見えないが角の向こうから降りてくる人、小路のドアの前で口論していたのが、もつれあって部屋に転がりこんだりした。酔っぱらいが低い声でわめきながらうろついていた。そんな連中からすり抜けた。夜更けであって、誰も他人にかまわず、誰もうるさいことは言わないので、共同の宿泊所にまぎれこむこともできただろう。そんな施設の前を通り過ぎた。テレーゼにはわからなかった。母はもはや休もうとはしないのだ。夜明けがきた。美しい冬の朝のはじまり。二人は塀に寄りかかっていた。そこでたぶん、少し眠ったのだろう。目を開けたまま立っていただけかもしれない。テレーゼは自分の包みを失くしていた。不注意のお仕置きに、母親はぶつと言った。しかし、ぶたれた覚えはない。なにも感じなかった。それからまた歩きだした。通りに人の姿が見えてきた。塀沿いに行くと、一つの橋に来た。母は片手で手すりの浮彫りを撫でるようにして進み、ついに――あのときは夢中だった、いまとなっては吞みこめないのだが――母が翌日の仕事場と言っていた建築現場に来ていた。母は待っていろとも、どこかに行けとも言わなかった。テレーゼはそれを待つ指示だととった。いちばん、そうしたかったからだ。レンガの山にすわりこんだ。母が包みをひらき、色鮮やかな布切れをとりだして、スカーフの上から巻きつけるのを眺めていた。もう疲れ果てていて、母の手助けもできない。ふつうは現場の事務所に向かうか、誰かに声をかけるものだが、母はまるで与えられた仕事を知っているかのように、梯子を上りだした。下働きの者は、いつもは下で石灰を捏ねたり、レンガを手渡したりといった単純な仕事をするものだ。だから母が賃金の良い仕事にありついたのだと思って、半分ウトウトしながら、うれしそうに眺めていた。建物はまだ1階分ができただけだった。しかし、骨組みは高く組み上げられていた。板が打ちつけてないので、青空がのぞいている。レンガ職人がレンガを積んでいた。母は巧みにすり抜けていく。なぜか誰も声をかけない。母は用心深く板仕切りに手を伸ばした。テレーゼは夢うつつのなかで、母親の身軽さにびっくりした。母がこちらを優しく見つめているような気がした。レンガが積んであるところがあって、そこが行き止まりらしかった。母はかまわず上にあがった。とたんによろけ、レンガを越えて下に落ちた。続いてレンガが崩れた。さらに間をおいて大きな板が外れ、音を立てて落下してきた。最後にテレーゼが覚えているのは、両脚を伸ばして倒れている母親の姿だった。ポンメルンから持ってきた格子模様のスカートをはいていた。折れた板がかぶさるようにのっていた。まわりから走り寄る人々がいた。上の現場から、怒ったようなどなり声がした。

 テレーゼが話し終えたとき、ずいぶん夜が更けていた。いつもはそうでないのに、きちんと詳しく話した。板の打ちつけてない骨組みといったなんでもないところで、急に涙を流して、言葉をつまらせた。そのとき起きたことを10年経ってもまざまざと覚えていた。工事現場で見たのが母親の最後の思い出であって、やはり言い足りない気がして、話し終わった後、もう一度そのことに戻りかけたが、喉をつまらせ、両手に顔を伏せたまま、ひとことも言わなかった。


出典:フランツ・カフカ「失踪者」池内紀 訳、白水ブックス、2006年刊

2021年12月22日

映画と世界像 2

「見る」という語の二つの用例。


その1、「そこに何が見えるのか」――「私はこれを見ている」(或る記述、ある素描、或る模写が続く)。

その2、「私はこの二つの顔に類似を見る」——これらのことを私が報告している相手が、私と同じように二つの顔を見ていてもかまわない。


重要なのは、見えている二つの「対象」のカテゴリー上の区別である。


一人はたぶん、二つの顔をそっくり描き写すことができるであろう。もう一人はその素描のなかに、最初の人の気づいていなかった類似を認めることができるであろう。


私が或る顔を熟視していると、突然他方の顔との類似に気づく。私は、その顔が変化しなかったことを見ている。にもかかわらず、それは違ったふうに見える。この経験を私は「或るアスペクトの知覚」と名付ける。


心理学者たちはその原因に関心をもつ。


われわれが関心をもつのは、この概念と、経験概念のなかでそれが占める位置である。



対象の色には視覚印象の色が対応し(この吸取紙はバラ色に見えるし、実際バラ色である)、対象の形には視覚印象の形が対応する(私にはそれが四角に見えるし、実際に四角である)。——しかし、私がアスペクトの変転において知覚するものは、或る対象の性質ではなく、その対象と他の対象との内的な関係である。



私は実際にその都度別のものを見ているのか、それとも自分の見ているものを違った仕方で解釈しているにすぎないのか。私としてはこの最初のほうを主張したい。それはなぜか。——解釈することは思考であり行為であるのに対して、見ることは一つの状態である。


出典:ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン「哲学探究」2 部11章(黒田亘 編「ウィトゲンシュタイン・セレクション」平凡社、2000年刊)

2021年12月21日

映画と世界像 1

Ludwig Wittgenstein(1889−1951)

1          世界は成立していることがらの総体である。

1.1       世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

1.12     なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかも規定するからである。

1.13     論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

1.2       世界は諸事実へと分解される。


2          成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。

2.01     事態とは諸対象(もの)の結合である。

2.021   対象が世界の実体を形づくる。それゆえ対象は合成されたものではありえない。

2.0231 世界の実体が規定しうるのは、ただ形式のみであり、実質的な世界のあり方ではない。なぜなら、世界のあり方は命題によってはじめて描写されるのであり、すなわち、諸対象の配列によってはじめて構成されるからである。

2.025   実体は形式と内容からなる。

2.026   対象が存在するときにのみ、世界の不変の形式が存在しうる。


2.1       われわれは事実の像をつくる。

2.11     像は、論理空間において、状況を、すなわち諸事態の成立/不成立を表わす。

2.12     像は、現実に対する模型である。

2.17     像が像という仕方で現実を——正誤はともかくとして——写しとっているために現実と共有していなければならないもの、それは写像形式である。

2.2       像は写像されるものと写像の論理形式を共有する。

2.201   像は諸事態の成立/不成立の可能性を描写することによって現実を写しとる。


出典:ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」野矢茂樹 訳、岩波文庫、2003年刊

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分析哲学のもっとも有名な本からの引用です。でも、俺にとっては映画理論の最重要レファレンス。自分が何を撮るべきか?撮ったそのカットは映画として意味があるのか?なんて問いは、それが世界の「像」たりえるかどうかに尽きると思うので。

2021年12月17日

2021年の映画5本

東京上空いらっしゃいませ(1990)

本気のしるし 劇場版(2020)

ラ・パロマ(1974)

逃げた女(2020)

デカローグ第3話「あるクリスマス・イヴに関する物語」(1988)

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現在準備中の作品が男女カップルの物語ということもあり、今年はカップルを描いた映画を意識していたかも。『東京上空いらっしゃいませ』は相米慎二の詩的リアリズムとファンタジックな物語が融合。『本気のしるし 劇場版』は自分の撮影期間中に見て、めっちゃ刺戟されました。ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』はメロドラマの語りを加速させ、マニエリスムにまで昇華させた快作。ホン・サンスの『逃げた女』は正確には「逃げてきた女」という話ですが、女の横にはいつも「不在の夫」がいるという意味での「カップルの映画」でしたね(コジツケてないっすよ!)。選択のテーマから外れたところでは、ハンス・ジマーの「音響」に圧倒された『DUNE/デューン 砂の惑星』やデヴィッド・バーンの知性が光る『アメリカン・ユートピア』など。世評も高かったですね!M・ナイト・シャマランの『オールド』はブニュエルの『皆殺しの天使』を彷彿させ、個人的にも忘れられない一本でした。