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| 我ら山人たち |
『山の焚火』(1985年)という傑作に圧倒されながらも不思議に感じるのは「なぜ彼らはここに住み続けるのだろう?」ということではないか。俺もそういう疑問とともに『我ら山人たち』(1974年)を見始めた。本作には「我々山国の人間が山間に住むのは、我々のせいではない」という副題が付く。事例として語られるのは、たとえば、300年か400年前に密輸業者の一家として移住してきたという祖先の話。住民みなそれぞれが何世代にもわたる家族の系譜をもつ。元々は、何らかの事情で平地の村落に居られなくなったとか、人づきあいが苦手で共同体から距離をとったとか、山上に足を踏み入れる理由はいくらでもあるに違いない。ある老人は、スイス中を探してもこんなに美しい場所はない。だからここを離れない。ここにいるというだけで十分だ、とも語る。きっかけは何にせよ、彼らは過酷な環境と闘いながら、自然の崇高な美を感じ、地上を見下ろして生の実感を得てきたのだろう。いわば、山の生活そのものがすでにひとつのマイナー思想なのだ。
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| 緑の山 |
一方、そんな“聖なる山”に坑道を掘り、放射性廃棄物の最終処理場にしようという計画が持ち込まれ、地元住民は混乱に陥る。その問題を論争的なルポルタージュとして撮ったのが『緑の山』(1990年)である。映画のエンドクレジットが終わると、改めて「忘却に抗う」という字幕に続き、鉛の棺が三つ映し出される(チェルノブイリ原発の事故を記念したオブジェらしい)。山の民の歴史を刻んだ『我ら山人たち』に始まり『山の焚火』を経て『緑の山』では未来の記憶まで捉えようとするフレディ・M・ムーラーの視線——それは巨大な時間と空間の再編成を試みる映画的思考の軌跡だと思う。