2022年7月30日

8月6日は上映会!

以下の通り、この夏、上映会をやります!気軽なイべントにしたいと思いますので、興味をもっていただけた方、ぜひ、ご連絡ください!上映会の趣旨や作品内容についてはブログ記事を参考にしていただければ幸いです!

映画原論ゼロ号試写

上映作品:

『disposal』出演:西村俊彦、田中久惠、伊藤賢児(約28分)

『王あるいはなにものか』出演:紺乃鳳文、河南由良(約22分)

『だるまかれし まぐろかのじょ』脚本:モスクワカヌ 出演:中田由布、木内コギト、 竹田航(約40分)

日時:2022年8月6日(土)18時~20時(開場は10分前を予定)

場所:新橋 TCC試写室 (アクセス案内にリンクしています)

参加費:2,000円(予約制)

*Mail、TwitterDM、Messenger、PC版サイトのMessage等、何でも良いので、参加希望の旨をお知らせください。

2022年7月6日

「だるまかれし まぐろかのじょ」解題


 〈2〉の映像から〈2.x〉の映画へ

『だるまかれし まぐろかのじょ』(2022年)を企画したのは、Covid-19の影響が国内まで拡がった頃でした。ライヴを愉しむエンタテイメントは公演中止が相次ぎ、人気歌手がYouTubeで「うちで踊ろう」と口ずさんだり。小劇場演劇も公演が打てなくなったので、業界では急速に「映像化」が進行。無観客配信をしたり、メディアを販売したり、ドラマを製作したり…。以来「演劇の映像」は舞台鑑賞を補完する手段としてほぼ定着したといっても良いかもしれません。そしてこの映画も、劇作家のモスクワカヌさんに脚本を依頼し、会話劇のスタイルをベースに組み立てました。中田由布さん、木内コギトさん、竹田航さんといった小劇場で活躍する俳優陣が素晴らしい芝居を披露してくれたので、余計「これやっぱ舞台で見たいよね…」とは言わせられん!と必死でしたが、約40分の映像をご覧になった印象はどうでしょう――まだまだ演劇擬き?それとも十分に映画だった?――映像と舞台の鑑賞上の違いを指摘するなら、まずは視線の質だと思うんですね。映像は作り手が視線をコントロールするのが前提だし、演劇では座席を離れられないという制限があるにしてもどこを見るかは観客の自由。だから、演劇を映像で見る時に居心地の悪さがあるとすれば、そのひとつが「カット割」だったりします。なので、雑にカットなど割らず他のストレスも少ないというほうが好ましい。余談ですが、その意味で、日本のラジオが配信した『ロマンランタン』は最高でした(こちらにも木内コギトさんが出演しているので機会があればぜひご覧ください!)。瀟洒な演劇であると同時に的確なフレームをもつ映像でもあり、パーフェクトだったと思います。『だるまかれし まぐろかのじょ』の製作もそんな演劇の映像化に腐心する一方、映像表現固有の関心から意識したのは「〈3〉の映画」を作りたいということでした。それは『disposal』がモノローグを使った〈1〉の映画であり『王あるいはなにものか』がデュエットによる〈2〉の映画だったからです。映画史的に〈3〉の映画というと、自分はトリュフォーの『突然炎のごとく』(1962年)をパッと思い浮かべたりします。そこから見ると、まだ〈2.x〉くらいの映画に留まっているのかもしれませんが、デュエット(二重唱)とダイアローグ(対話)の違いは鮮明になったという感じでしょうか。デュエットには開放された空間に拡がる共時的な響きがあるし、ダイアローグは閉じた空間で言葉を通時的に響かせるので、両者の存在様態がそもそも違う。デュエットの〈2〉は原理的に〈2〉の変奏だけど、ダイアローグの〈2〉は時に〈2〉の規則性から逸脱する。そこにノイズが生じたり偶然性の介入があるということです。優れた芸術にはそういう不確かな力が埋め込まれていて、それが物語を動かすトリガーになる、はず。だから、ダイアローグやツーショットといった〈2〉の映像の内部から外部のスクリーン=作品全体に波及する“何か”を感じてもらいたい。「〈2.x〉の映画」として成功するかどうかの鍵がそこにあると思っています。

2022年7月4日

「王あるいはなにものか」解題


 言葉の自由時間を読む

『王あるいはなにものか』(2022年)のテキストはガートルード・スタイン(1874-1946年)の詩「The King or Something」です。日本語版の詩集としては『地理と戯曲 抄』(金関寿夫ほか訳、書肆山田、1992年)があり、この作品も、ぱくきょんみさんの翻訳で収録されています。台本の作成にあたっては新たに訳出しましたが、もちろん参考にさせていただきました。深謝!そして、英語の詩を日本語で読むという行為に大きなギャップが生じるのもわかってはいるつもりです。とはいえ、英語でも日本語でも、スタインの詩の特徴がモチーフの日常性や語彙の平明さ、その簡素なスタイルの徹底にあるというのは確かでしょう。個々の言葉はごくありふれたものを語るようでいて一言一句の構成が時に官能的な世界を立ち上げます。それはフランス文学のような象徴性ともアメリカのビートニクのような挑発性とも異なり、慣れ親しんだ言葉の風景を直感的にカット&ペーストするような軽快さもあるので、とても自由な空気を醸成しています。録音時の台本には「言語空間の柔らかな秩序について」という副題を付けました。この「柔らかな」という物理特性がスタインの詩の自由を理解する視座にならないかと考え、彼女の言語ネットワークを精査し、言語空間が生まれる瞬間の柔らかな手触りのようなものを探りたかった――。リーディングは二人の俳優、紺乃鳳文さんと河南由良さんにお願いしました。紺乃ボイスの鋼のような輝きと由良さんの語りの快活さや親密さは、20世紀初頭のアメリカ社会を築いただろう市民の活力を表現しています。この詩の原典の副題は「The Public is invited to Dance」というのですが、そんな雰囲気ですね。ビジュアルに関しては、なんというか、スタインの言葉の響きをスクリーンに透過するようなイメージを選びました。その結果は、正直、編集用モニターで見ている現在はまだ不十分、もっと大きなスケールで映写して初めて体感できると思っています。たとえば、公園かどこかの芝生に寝転がって空をボーッと眺め、詩のリーディングをボーッと聴くような大らかな映画になってくれたらなぁと願いつつ。およそ20分余の映像、束の間の“言葉の自由時間”を愉しんでいただければ…

2022年7月2日

「disposal」解題


2010年代の日本と「死の素描」

『disposal』(2015年)の見どころは全部!と言いたいところですが、上映時間28分のうち20分余りを占める「地下道を彷徨う男」が何を意味するのか?は気になるかもしれません。逆に言えば、この謎めいた描写を焦点にしたいので、どの程度物語的に「意味付け」をするかは製作上の課題でした。結局、リーディングに使う小説はクラシックだし、撮影した映像もシンプルだったので、物語の余白は空けたままにしようと決めました。たとえば、堀辰雄の「死の素描」とこの〈男〉はどんな関係にあるのか?男が渡された〈スーツケース〉の中には何が入っているのか?男はなぜ苦しむのか?詳細は明らかになりません。それでも〈男〉はこの映像世界において唯一無二の人物であり、彼は「死の素描」の語り手、登場人物でもあり、そして何らかの指令を与えられ、遂行の過程で死の危険に晒される存在なのです…。この作品を製作した2010年代前半は東日本大震災の記憶も今より生々しい時期でした。国策として流布された〈安全神話〉の果てに爆発した原発。そこから流出する放射性物質や汚染水をどう処理するのか?政府は、あるいは東電は、事故責任を回避し被害状況を小さく見せようとやっきになっているようにみえました。その結果、彼らにとって不都合な事実は沈黙の下に処理されつつ権力機構の闇へと葬られ(タイトルの「disposal」は「廃棄」を意味します)日本のエネルギー政策は方向転換すら果たせていません。映画の最後に投影する福島の海、それは墓標としての海です。われわれはこのカフカ的装置に組み込まれ、今も「死の素描」の線上を歩いているのではないか?巨大な悪意も計画も察知できぬまま、人間に必要な「赤い血」はいつのまにか「赤インク」にすり替えられているのではないか?既存の国家システムへの不信感は2022年の今もまだ拭えないどころか近年のCovid-19への対応ひとつをとっても、何も変わっていません。やっかいな新型ウイルスが2019年に発生した事実は、この2010年代の悲劇が終わらないことを示唆しているような気すらします。こうした時代の閉塞感を語るため、一方では、堀辰雄らしいちょっとセンチなモノローグを西村俊彦さんの美しい倍音ボイスで再生し、もう一方では、現代日本の黙示録的世界をハードコアなロケーションで撮影しました。それにしても、あんなペラッペラな防護服と防塵マスクで〈男〉は自身を守り切れるのでしょうか?彼とわれわれの甘味な悪夢はいったいいつ終わりを告げるのでしょうか?