2022年6月15日

映画原論ゼロ号試写について 

消費文化に抗って考える

いまや誰もがスマホで動画を視聴し、みずから撮影してネット公開する人だって少なくありません。「映像」は個人ベースでも生産と消費をくりかえすカジュアルなメディアになったのです。しかし、映像の歴史はもともと身体の血が逆流するような「驚異」の体験とともに始まったことをご存知でしょうか。19世紀末にリュミエール兄弟の撮った『列車の到着』を見て「機関車が迫ってくる!」と驚いた観客たち。人間の心の脆さを暴くヒッチコック映画に打ち震えた観客たち。スクリーンの光は人々の現実感を揺さぶり、無意識のドアを叩き、時にその影響力はファシストに利用され…、さまざまな議論の俎上に載せられてきたのですが、現在、その文化的インパクトは昔ほど大きくないようにもみえます。生産と消費のサイクルを加速する資本主義社会では、次々生まれる「新製品」リストから自分の「好きな商品」を選べば良い。映画や映像だって、それぞれがそれぞれの欲望を満たせば、ま、OKだろ?というわけです。むろん、それがメディアの現状だとしても、たかだか1世紀ちょいで「人間と映像」の関係が瓦解するわけないと思うんですね。人間が自身の視覚や聴覚から世界像を生みだすという能力はおそらく人類の知性を育てる力であり、ユニクロの商品のように消費するものではない。人類は視聴覚を駆使してさまざまな知見を積み重ねてきたし、映画のような視聴覚を延長するメディアを他のメディアが代替するのも難しいはず。ゆえに、われわれは「映画とは何か」を問うことで世界の構造変化に対応するのであり、その意味で「映画原論」は現代に根ざした議論なのです。

デジタル時代のスクリーン

また、既成のジャンルに囚われず〈映像〉をスクリーン上映してみようというのが「映画原論」のコンセプトです。ネット配信はしません。スクリーン主義を掲げるのは、良い環境で見てもらいたいという以上に、デジタルの時代だからこそアナログなスクリーンを共有することに意味があると思うからです。〈映像〉をデジタルメディアのひとつとして分析するのはアカデミーに任せ、こう考えてみます。――このスクリーンの〈映像〉は「わたし」のものではなく「われわれ」のものである。そう意識した瞬間、0と1の集合データである〈映像〉は物質的かつ想像的な〈映画〉になる。『マトリックス』のネオが救うべき瀕死の世界、世界の真実を知るには、それをともに見るレジスタンスの仲間(=われわれ)が必要だったように…。その冒険の味わいが陶酔的なのか覚醒的なのかはわからないけれど、スクリーンを媒介することで、われわれは世界の欠片に触れ、感じ、考え、理解し、あるいはより深き迷宮に踏み込むきっかけを得るんじゃないか。――その意味では、今回上映する3作品の中の『王あるいはなにものか』などけっこう良いヒントになるかもしれないです。今後、もっと自由にコンテンツを織り交ぜたいので「あれ上映するとおもしろいかも?」という心当たりがあれば、ぜひ、ご推薦ください!スクリーンでバーンと見直しましょう!