良い映像編集って、あるカットを適正な時間に切り出し、配置し、その真実性を高めると同時に前後のカットの関係性において新たな視点を獲得するものだと思う。だから、いわば彫刻作品を作るように素材を切削することで豊かな意味を産みだすという作業であり、その作用=反作用の均衡点を探す行為でもある。
2024年5月23日
2024年5月21日
現実と映像世界の齟齬について
そういえば、昨日行ったのはミニシアターだったから、予告編も世評の高い某日本人監督の作品が流れていた(良い印象を抱いたわけじゃないので名前は言いませぬ)。日本映画は外国映画以上に映像や被写体への意識や嗜好性において共感しやすく、逆にそのぶん反感もヴィヴィッドに現われますね。その敏感さには我ながら驚きます…
そういう神経過敏なところは自分でもちょっと嫌になる。たとえば、俺自身たっぷり楽しんだ演劇作品があり、そしてその舞台を作演さん自身が映画化したとする。その出来には作演さん自身十分満足している。でも、俺にはそれはまったくの別物なので好きになれないことも大いにありうるというかその可能性のほうが高いくらいなので…きっと、怖くて見られない…
根拠がないわけじゃない。仮に、同じ俳優の同じ表情でも生で見るのと映像で見るのとでは意味が違う。視覚的ニュアンスが違うという以上に、そこには映像の哲学や思想が介在するので、それは存在論的に異なる。あるいはそれは、いわばSFの並行世界みたいなもので、両者の交わるところで必ず論理的齟齬が生じる。ほんのわずかな齟齬、もう意識するかしないかという脳科学的なシナプスの働きが意識の破綻や断絶に直結するんじゃないだろうか…
2024年5月14日
可能性の芸術
物語芸術というのは可能性の芸術だと思う。だが、この現実世界で可能性はすぐに潰え去る。なので、われわれは物語に飢えている。次から次へと新しい物語を求める。それはより可能性を感じるという意味で新しいものほど価値が高いが、現実感を欠いては可能性を産みだす基盤をも失う。ゆえに、可能性の芸術は、その言葉を可能なものと不可能なものの間に宙吊りにする。可能性の言葉は、古きものと新しきものの間を彷徨い、今この状態、現在はいつでも変化し得るものとしての持続の相にある。止まっていても速くあれ!
2024年5月11日
〈出来事の連鎖〉を活性化する
映画を見ることの価値、重要性というのは、そこに何かの(時に職人的、時に芸術的な)美意識や技術的達成を見ることではない。むしろ、そういった美の洗練が意味を失い、それがただの人間の行為や行動の記録であり、またそれが物語として統合される可能性を孕むと同時に破綻の恐れに曝されるような〈出来事の連鎖〉の活性を見ることにある。
2024年5月8日
自宅のAV環境を考える
MacStudioへ取り込んだ音楽CDをそこそこ、まぁそこそこではあるが良い感じに鳴らせるということを、最新の小さなヘッドホンアンプで実感して以来、映画や音楽の再生機器をすべてMacStudioに統合してしまってはどうか?というアイデアが頭の片隅にチラついている。
今までずっと、音楽はミニコンポとCDで、映画はテレビとDVD&Blu-rayで、というAV機器環境を過ごしてきた。とはいえ、音楽を聴く場所はいかんせん狭い賃貸の木造アパート。オーディオの世界は探究しだすと奥深く、金もかかる底なし沼である。一方、映画を自宅で見るのは独りで本を読むのに似ていて映画館での劇場体験とはまた別物だし、テレビ放送とも疎遠になって久しい。ならば、古くなってきた我が家のコンポやテレビ、ディスクプレーヤーの刷新を画策するよりも、ずっと合理的な選択ではないだろうか?
むろん、いまだ映画や音楽のCDやDVD、Blu-rayなどのコレクションを最良の状態で再生したいという気持ちは強いが、映像面でのディスプレイ性能はすでに画面サイズの差しかないし、ネックとなっていた音響面はパワード(アンプ内蔵)スピーカーの進化で急速に格差が埋まりつつある…