2022年1月23日

ウェンディ&ルーシー


 1/25(火)1/27(木)に早稲田松竹での上映あります。最高です!ケリー・ライカート4作品の中でも、まずはこれ!おすすめ!!

2022年1月21日

童夢、復刊!

大友克洋 著、講談社、2,700円+税

もちろん、双葉社から出版された単行本は持っていたが、もう名作中の名作だし、読みたくなったらいつでも買い直そう!と決めて処分したんだと思う。ところが、最近は高値の古本しか手に入らなくて、なんだよー!とぶーたれていたら、今回の全集のため、再刊などの企画を断っていたという。そんな漫画史の金字塔が、大きな版面(B5変型)で連載時の扉や2色刷ページも再現、素晴らしい紙と印刷、造本で読めるんだから待っていた甲斐はある。われわれは今こそ『童夢』の画期性、ストーリー漫画の時間と空間に革命がもたらされたという歴史を学ぶべきなのだ!

2022年1月20日

卑劣漢の美学

Orson Welles(1915−1985)

 ――あなたの考えでは、オセローも唾棄すべき人物でしょうか?


ウェルズ:嫉妬は唾棄すべきものだが、オセローはそうじゃない。でも彼は、あまりに嫉妬にとりつかれ、しまいには嫉妬の権化と化してしまうわけで、その限りでは唾棄すべき人物だ。ああした高潔な人物はみなそうだ。たとえばリアは、厳格であるかぎりにおいて憎むべき人物なんだ。シェイクスピアにおけるきわめて大きなテーマの一つは、彼のもっとも興味深い人物はみな〈19世紀の〉倫理観をもっていて、どれもみな陰険な人物だというところにある。ハムレットは疑いなく、陰険な男だ…シェイクスピアの偉大な人物はみな、卑劣漢なんだ…


――そのことはあなたの作品の登場人物たちについても言えるようです。


ウェルズ:このことは、メロドラマの枠組みのなかで悲劇的であろうとするすべての演劇作品についていえることだ。メロドラマであるかぎり、悲劇的なヒーローはみな、卑劣漢になろうとする。メロドラマのなかではヒーローというのは意味をもたないからだ。シェイクスピアは純粋な悲劇というのは一度も書かなかった。彼には書けなかった。彼は悲劇のスケールをもったメロドラマはいくつか書いた。でも、メロドラマであるがゆえに、そのヒーローは卑劣漢になってしまう。たとえば、ブルータスのような純粋なヒーロー、真のヒーローは誰も彼もみな悪役なんだ…


――『ジュリアス・シーザー』のシーザーもまた、卑劣な人物です。


ウェルズ:まったくの卑劣漢だ。そう『ジュリアス・シーザー』の登場人物はみな卑劣漢だ。そしてあの戯曲がきわめて興味深いのは、シェイクスピアが、すべての登場人物に味方していると同時に敵対してもいるからだ。いずれにせよ、シェイクスピアの長所は、政治的にも倫理的にも、何かの信奉者にならなかったというところにある。


――私が推測するに、あなたの考えでは『アーカディン氏』(1955年)のアーカディンは他の人物たちより〈ましな〉人物ではないでしょうか?


ウェルズ:そう、他の人物たちよりましだ。というのも、あれは単なる冒険家以上の人物だからだ。ぼくにとっては、完全に好感のもてる人物でさえある。


――でも、ロバート・アーデンが演じた人物は…


ウェルズ:あれは恐ろしい人物だ。悪党の最たるものだ。


——あの二人の闘いで、アーカディンがあれほど堂々として魅力的に見えるのはそのせいですね。


ウェルズ:そう、アーカディンは山賊じゃない。たしかに彼は、かつてあれこれ卑劣なことをしたし、し続けてもいる。でも、そうしなかった者がいるだろうか?あれは冒険家なんだ。ぼくにとって彼は、共産主義者にならなかったスターリンのようなものだ。スターリンがしでかしたことを別にして好感がもてるのは、どこかロシアを思わせるところにある…冷酷無情でありながら、ある種のことに対する感傷に満ちたロシア…その典型的にスラヴ的な、あの不思議な性格…ぼくはああした性格が大好きなんだ。


——あなたがおっしゃるように、あなたの登場人物が人間的には唾棄すべき人物ではないとすると、その人間的な部分は、倫理的ではないにしろ、なんらかの価値を表していることになるはずですね。


ウェルズ:その人間的な部分がなんらかの価値を表すとすれば、それはぼくが自分の敵たちに、ぼくのこしらえることのできる最高の言い訳を与えたからだ。しかも、ぼくは俳優としてだけでなく作家としても登場人物のなかに入って行き、その人物の枠内でぼく自身の最高のものを発揮しようとしている。


——つまり、あなたは悪魔の弁護人としても振舞うことになる。


ウェルズ:いや、それ以上だよ。ぼくはその人物になりきり、ぼくの最高のものを与えながら、その人物を変貌させるんだから。しかも、ぼくは、その人物そのものは大嫌いなんだ。


——あなたが彼らに共感以上の感嘆を抱いていないとは信じられません。あなたは悪魔に救済の可能性を与えておられるのです…


ウェルズ:ぼくが演じたこれらの人物はみな、ファウストのバリエーションなんだ。そしてぼくは、どんなファウストとも敵対している。というのも、ぼくが思うに、一人の人間にとっては、自分より偉大な何かが存在するということを認めないかぎり、偉大な人間になることはできないからだ。その偉大な何かは「法」でも「神」でも「芸術」でも、他のどんな概念でもいいが、人間より偉大なものでなければならない。ぼくはこれまで、自己中心主義者の系譜に属するさまざまな人物を演じてきた。でも、ぼく自身は自己中心主義は大嫌いなんだ。それでも、俳優というのはもちろん自分が演じる役に惚れ込んでしまう。そして自分自身の何かを役に与えてしまう。俳優というのは悪魔の弁護人なんかじゃない。恋する者なんだ。異性の誰かに恋をする。そしてファウストというのはぼくにとっては、その異性の誰かのようなものだ。ぼくの考えでは、この世界の人間性には大きく二つのタイプがあって、その一方を代表するのがファウストなんだ。ぼく自身は他方に属しているが、それでもファウストを演じるときは、彼らに対して公正で忠実であろうとする。彼にぼく自身がもっている最高のものとぼくが見つけることのできる最高の言い分とを与えようとする。それは、われわれの生きるこの世界がファウストによってつくられた世界だからだ。


「作家主義/映画の父たちに聞く」(奥村昭夫 訳、リブロポート、1985年)より、抜粋再編。

2022年1月15日

「俳優」を破壊する

Jean-Luc Godard (1930-)

ブレッソン:〔プロの俳優ではない〕生な素材としての人間を使う場合は、創造がなされるんだ。その人間が、自分の肉体や筋肉、血、精神をつかって創造を行なうわけだ。そしてわれわれの創造と結びつくのは、その汚されていない人間の創造のほうなんだ。…俳優を使う場合は、われわれは自分の映画のなかに入ることができない。その場合は、創造するのは俳優であって、われわれじゃないんだ。


ゴダール:あなたが言われる、どんな経験にも汚されていない人間というのはよくわかります。でも、そうした人間も、いったん何かをすれば…いったん映画の1/24秒間に出演すれば〔映画では1秒間に24コマのフィルムを連続撮影する〕、その1/24秒という時間によって汚されてしまうのです。喩えて言えば、キリスト教徒ではない人がいったん洗礼の水に身を浸せば洗礼を施されてしまい、理屈のうえではキリスト教徒になってしまうようなものです。同様に、俳優ではない人間も、映画に身を浸したとたんに、何かに染まることになるのです。ということは、基本的には、俳優も他の人間も変わりはないということです。


ブレッソン:いや、それは違う、まるで違う。というのも…


ゴダール:となると、私にはわかりません…


ブレッソン:そうか、君にはわからないのか…。俳優というのは何よりもまず、演技することをけっしてやめない連中のことだ。そして演技というのは、放出するということなんだ。


ゴダール:それを壊すことはできます。それを破壊し、俳優に…


ブレッソン:できはしないよ。


ゴダール:できます。究極的には、ドイツ人が強制収容所のなかでユダヤ人を破壊したのと同様、俳優を破壊することはできます。


ブレッソン:できはしないよ…。習慣というものはきわめて大きなものなんだ。俳優は俳優なんだ。連中は自分を外に放出するんだ。それに対し、俳優ではない人間が体現するわれわれの人物は、完全に閉じられた存在でなければならない。フタを閉めた瓶と同様、完全に閉じられた存在でなければならない。そしてそうした存在は、俳優にはつくることのできない。…われわは単純な存在じゃない。われわれはきわめて複雑な存在なんだ。そして、われわれが俳優ではない人間のなかに見つけ出すことができるのは、この複雑さなんだ。つまり、われわれは複雑な存在だが、俳優が放出するものは複雑なものじゃないわけだ。


ゴダール:俳優であるということは、たとえどんなに出来の悪い俳優であっても、それでも、一人の人間だということです。そしてその人間は、必然的に複雑な存在なのです。あなたはなぜ、俳優のなかの人間としての側面を認めようとされないのですか?


ブレッソン:それは、連中が俳優であることの習慣にあまりに染まっているからだ。実生活のなかでさえも俳優であり続けているからだ。


ゴダール:でも結局のところ、俳優であるということは、鍛冶屋であるということよりもたちの悪いことであるわけじゃなく…


ブレッソン:でも、君はどうして「たちの悪い」などという言葉を使うんだね?ぼくは俳優がああしたものだということに対しては、恨みなんか少しももってない。


ゴダール:ええ、でも私が言いたいのは、あなたにしても、鍛冶屋には鍛冶屋にできることをやらせ、公証人とか刑事とかに演じることを求めたりはしないわけで、それと同様に、厳密には、少なくとも「俳優を演じさせる」ためには俳優を使うことができるはずだということです。


ブレッソン:いや、それは違う。われわれが誰かを使うのは、その人のなかからある一定のものを引き出したいと考えるからなんだ…


「作家主義/映画の父たちに聞く」(奥村昭夫 訳、リブロポート、1985年)より、抜粋再編。

——

ゴダールの論法で言うと、映画作家は「何かの役を演じている人間」を被写体にするという感覚だろう。俺もどちらかというとゴダールに共感するが、ブレッソンの「(演技に)汚されていない人間」という考え方にも意味があると思う。それは常にそこに立ち返って考える基準点のようなものではないか?

2022年1月10日

風をこぐ

橋本貴雄 著、モ・クシュラ、3,200円+税

モ・クシュラさんから新刊を御恵投いただきました。散文詩をまとめたような美しい写真集です。俺ごとき無粋者が説明するより、作家の多和田葉子氏による帯の言葉を書き写しておきましょう。

——写真の中の一匹の犬を見ていたら、いつの間にかわたしの心の奥深くに入りこんでいた。知らない犬なのにどうしてだろうと驚きながら、こんなことを思った。人は誰もが怪我をした犬を心の中に飼っている。その犬を大切に見守りながら旅すれば、風景はこんなにもしみじみと見えてくるのだ、と。

2022年1月9日

『ジャネット』は必見!

2022年1月1日

謹賀新年

明けましておめでとうございます!

本年もよろしくお願いいたします!!

今年は今まで疎かにしてきたというかそこまで辿り着けなかった「上映」をやろうと思っています。「興行」じゃなくて「上映」です。「配信」じゃなくて「上映」です。「上映」する弾も、懸命に準備中です。

ひとつは数年前から手掛けている、ガートルード・スタインの詩『王あるいはなにものか』のリーディング音声を使った映像作品(約20分)で、紺乃鳳文さん、河南由良さんにご協力を仰ぎました!もうひとつが、モスクワカヌさんの脚本を基にした『だるまかれし まぐろかのじょ』で、昨年撮影した約40分の映画です。こちらは木内コギトさん、中田由布さん、竹田航さんらに出演していただきました。2本とも製作終盤だし、上映まで漕ぎつけるぞ!