| Jean-Luc Godard (1930-) |
ブレッソン:〔プロの俳優ではない〕生な素材としての人間を使う場合は、創造がなされるんだ。その人間が、自分の肉体や筋肉、血、精神をつかって創造を行なうわけだ。そしてわれわれの創造と結びつくのは、その汚されていない人間の創造のほうなんだ。…俳優を使う場合は、われわれは自分の映画のなかに入ることができない。その場合は、創造するのは俳優であって、われわれじゃないんだ。
ゴダール:あなたが言われる、どんな経験にも汚されていない人間というのはよくわかります。でも、そうした人間も、いったん何かをすれば…いったん映画の1/24秒間に出演すれば〔映画では1秒間に24コマのフィルムを連続撮影する〕、その1/24秒という時間によって汚されてしまうのです。喩えて言えば、キリスト教徒ではない人がいったん洗礼の水に身を浸せば洗礼を施されてしまい、理屈のうえではキリスト教徒になってしまうようなものです。同様に、俳優ではない人間も、映画に身を浸したとたんに、何かに染まることになるのです。ということは、基本的には、俳優も他の人間も変わりはないということです。
ブレッソン:いや、それは違う、まるで違う。というのも…
ゴダール:となると、私にはわかりません…
ブレッソン:そうか、君にはわからないのか…。俳優というのは何よりもまず、演技することをけっしてやめない連中のことだ。そして演技というのは、放出するということなんだ。
ゴダール:それを壊すことはできます。それを破壊し、俳優に…
ブレッソン:できはしないよ。
ゴダール:できます。究極的には、ドイツ人が強制収容所のなかでユダヤ人を破壊したのと同様、俳優を破壊することはできます。
ブレッソン:できはしないよ…。習慣というものはきわめて大きなものなんだ。俳優は俳優なんだ。連中は自分を外に放出するんだ。それに対し、俳優ではない人間が体現するわれわれの人物は、完全に閉じられた存在でなければならない。フタを閉めた瓶と同様、完全に閉じられた存在でなければならない。そしてそうした存在は、俳優にはつくることのできない。…われわは単純な存在じゃない。われわれはきわめて複雑な存在なんだ。そして、われわれが俳優ではない人間のなかに見つけ出すことができるのは、この複雑さなんだ。つまり、われわれは複雑な存在だが、俳優が放出するものは複雑なものじゃないわけだ。
ゴダール:俳優であるということは、たとえどんなに出来の悪い俳優であっても、それでも、一人の人間だということです。そしてその人間は、必然的に複雑な存在なのです。あなたはなぜ、俳優のなかの人間としての側面を認めようとされないのですか?
ブレッソン:それは、連中が俳優であることの習慣にあまりに染まっているからだ。実生活のなかでさえも俳優であり続けているからだ。
ゴダール:でも結局のところ、俳優であるということは、鍛冶屋であるということよりもたちの悪いことであるわけじゃなく…
ブレッソン:でも、君はどうして「たちの悪い」などという言葉を使うんだね?ぼくは俳優がああしたものだということに対しては、恨みなんか少しももってない。
ゴダール:ええ、でも私が言いたいのは、あなたにしても、鍛冶屋には鍛冶屋にできることをやらせ、公証人とか刑事とかに演じることを求めたりはしないわけで、それと同様に、厳密には、少なくとも「俳優を演じさせる」ためには俳優を使うことができるはずだということです。
ブレッソン:いや、それは違う。われわれが誰かを使うのは、その人のなかからある一定のものを引き出したいと考えるからなんだ…
「作家主義/映画の父たちに聞く」(奥村昭夫 訳、リブロポート、1985年)より、抜粋再編。