2022年1月20日

卑劣漢の美学

Orson Welles(1915−1985)

 ――あなたの考えでは、オセローも唾棄すべき人物でしょうか?


ウェルズ:嫉妬は唾棄すべきものだが、オセローはそうじゃない。でも彼は、あまりに嫉妬にとりつかれ、しまいには嫉妬の権化と化してしまうわけで、その限りでは唾棄すべき人物だ。ああした高潔な人物はみなそうだ。たとえばリアは、厳格であるかぎりにおいて憎むべき人物なんだ。シェイクスピアにおけるきわめて大きなテーマの一つは、彼のもっとも興味深い人物はみな〈19世紀の〉倫理観をもっていて、どれもみな陰険な人物だというところにある。ハムレットは疑いなく、陰険な男だ…シェイクスピアの偉大な人物はみな、卑劣漢なんだ…


――そのことはあなたの作品の登場人物たちについても言えるようです。


ウェルズ:このことは、メロドラマの枠組みのなかで悲劇的であろうとするすべての演劇作品についていえることだ。メロドラマであるかぎり、悲劇的なヒーローはみな、卑劣漢になろうとする。メロドラマのなかではヒーローというのは意味をもたないからだ。シェイクスピアは純粋な悲劇というのは一度も書かなかった。彼には書けなかった。彼は悲劇のスケールをもったメロドラマはいくつか書いた。でも、メロドラマであるがゆえに、そのヒーローは卑劣漢になってしまう。たとえば、ブルータスのような純粋なヒーロー、真のヒーローは誰も彼もみな悪役なんだ…


――『ジュリアス・シーザー』のシーザーもまた、卑劣な人物です。


ウェルズ:まったくの卑劣漢だ。そう『ジュリアス・シーザー』の登場人物はみな卑劣漢だ。そしてあの戯曲がきわめて興味深いのは、シェイクスピアが、すべての登場人物に味方していると同時に敵対してもいるからだ。いずれにせよ、シェイクスピアの長所は、政治的にも倫理的にも、何かの信奉者にならなかったというところにある。


――私が推測するに、あなたの考えでは『アーカディン氏』(1955年)のアーカディンは他の人物たちより〈ましな〉人物ではないでしょうか?


ウェルズ:そう、他の人物たちよりましだ。というのも、あれは単なる冒険家以上の人物だからだ。ぼくにとっては、完全に好感のもてる人物でさえある。


――でも、ロバート・アーデンが演じた人物は…


ウェルズ:あれは恐ろしい人物だ。悪党の最たるものだ。


——あの二人の闘いで、アーカディンがあれほど堂々として魅力的に見えるのはそのせいですね。


ウェルズ:そう、アーカディンは山賊じゃない。たしかに彼は、かつてあれこれ卑劣なことをしたし、し続けてもいる。でも、そうしなかった者がいるだろうか?あれは冒険家なんだ。ぼくにとって彼は、共産主義者にならなかったスターリンのようなものだ。スターリンがしでかしたことを別にして好感がもてるのは、どこかロシアを思わせるところにある…冷酷無情でありながら、ある種のことに対する感傷に満ちたロシア…その典型的にスラヴ的な、あの不思議な性格…ぼくはああした性格が大好きなんだ。


——あなたがおっしゃるように、あなたの登場人物が人間的には唾棄すべき人物ではないとすると、その人間的な部分は、倫理的ではないにしろ、なんらかの価値を表していることになるはずですね。


ウェルズ:その人間的な部分がなんらかの価値を表すとすれば、それはぼくが自分の敵たちに、ぼくのこしらえることのできる最高の言い訳を与えたからだ。しかも、ぼくは俳優としてだけでなく作家としても登場人物のなかに入って行き、その人物の枠内でぼく自身の最高のものを発揮しようとしている。


——つまり、あなたは悪魔の弁護人としても振舞うことになる。


ウェルズ:いや、それ以上だよ。ぼくはその人物になりきり、ぼくの最高のものを与えながら、その人物を変貌させるんだから。しかも、ぼくは、その人物そのものは大嫌いなんだ。


——あなたが彼らに共感以上の感嘆を抱いていないとは信じられません。あなたは悪魔に救済の可能性を与えておられるのです…


ウェルズ:ぼくが演じたこれらの人物はみな、ファウストのバリエーションなんだ。そしてぼくは、どんなファウストとも敵対している。というのも、ぼくが思うに、一人の人間にとっては、自分より偉大な何かが存在するということを認めないかぎり、偉大な人間になることはできないからだ。その偉大な何かは「法」でも「神」でも「芸術」でも、他のどんな概念でもいいが、人間より偉大なものでなければならない。ぼくはこれまで、自己中心主義者の系譜に属するさまざまな人物を演じてきた。でも、ぼく自身は自己中心主義は大嫌いなんだ。それでも、俳優というのはもちろん自分が演じる役に惚れ込んでしまう。そして自分自身の何かを役に与えてしまう。俳優というのは悪魔の弁護人なんかじゃない。恋する者なんだ。異性の誰かに恋をする。そしてファウストというのはぼくにとっては、その異性の誰かのようなものだ。ぼくの考えでは、この世界の人間性には大きく二つのタイプがあって、その一方を代表するのがファウストなんだ。ぼく自身は他方に属しているが、それでもファウストを演じるときは、彼らに対して公正で忠実であろうとする。彼にぼく自身がもっている最高のものとぼくが見つけることのできる最高の言い分とを与えようとする。それは、われわれの生きるこの世界がファウストによってつくられた世界だからだ。


「作家主義/映画の父たちに聞く」(奥村昭夫 訳、リブロポート、1985年)より、抜粋再編。